斉藤壮馬さんの「memento」という曲がメメントモリという言葉から連想されていることは知っていたのですが、よく考えたら「memento mori」のmori(ラテン語)を取り除いたこの楽曲タイトルの意味は「忘れないで」なのでは…とふと思いついて歌詞考察を読んでいました、加藤です。
まあそんなことは忘れてしまい、この方のブログを巡回してしまったわけです。活字中毒者というか、単純に文字読んでる時が一番落ち着くから読んでしまう、人はそれを活字中毒者と呼ぶのではなかろうか。
こういう方の書く雰囲気の文章ってなんか、森の白い靄みたいなイメージを私は感じる。斉藤壮馬の文章もそれに近いものがあるけど、コミカルなものだともっと黄色がついた靄というかカラフルなそんな感じ。
にしてもブログの記事、本当に斉藤壮馬さんが好きなんだな、と思って永遠と色々なページを巡って読んでしまった。こういうの好きだ。
健康で文化的な最低限度の生活に絡めて、本のお話もブログでされていてこの槙島聖護の引用が目に留った。
本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある。
調子の悪いときに本の内容が頭に入ってこないことがある。そういうときは、何が読書の邪魔をしているか考える。
調子が悪いときでも、スラスラと内容が入ってくる本もある。
なぜそうなのか考える。
精神的な調律、チューニングみたいなものかな。
調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラめくったとき、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ。
──TVアニメ『PSYCHO-PASS』15話より
私もこの言葉好きなんですよね。感覚の調整って言い方しっくりくる。ちなみに槙島聖護の言葉は真っ白で折り目が付いていない紙で指を切った時みたいな鋭利さがある、と自分はこの言葉を見るといつも思って指先が痛くなる。
ちなみに、この記事を書く前に実は声優アーティストの記事を書いていて、っていうか、もう下書きの溜まり方えげつないんですけどどうしたらええん?公開した記事より下書きの方が絶対に多い。いつかコミティアか文学フリマに出店するという名目で、インターネット上に公開したくない記事を一冊にまとめようかと思ってる、わりと真剣に書かれたのもあった気がするし、同時にオタク文化の考察本もだしていいかなという気持ちがあるので。売れなくても形にしたら満足できるかもという。
何書こうとしてたのか忘れましたね、諦めよう。
ああーあれだ、伊藤計劃の<harmony/>の話ですわ。
槙島聖護のセリフで、話し相手が「本は電子で〜」みたいなのを言った後に「紙の本を買いなよ、電子書籍は味気ない」って言ってから先ほどの言葉が後に続くのですが、伊藤計劃のハーモニーにもほぼ同じシーンがあったなあって今思い出したんです。
ハーモニーでも槙島聖護のような存在が登場するんですね。主人公の幼馴染の少女で御冷ミァハという子なんですけど、テキストはダウンロードで読むのが当たり前の時代にわざわざ製本業者に依頼して紙の本を読んでいるっていうキャラクターで。
その子が、
「誰かが孤独になりたいとしたら、死んだメディアに頼るのがいちばんなの。メディアと、わたしと、ふたりっきり」
引用: <harmony/>
<part:number=01:title=Miss.selfdestruct/> P.17 2行目
著:伊藤計劃 ハヤカワ文庫
と語っているんです。ていうかハーモニー見るとわかるのですが、ほぼほぼ槙島聖護なんですよ。性別が違うだけで。
ちなみにハーモニーの方が、サイコパスよりも先に世に出てます。そして物語はまあ、なんだろう。サイコパスのバッドエンド版と言えばいいのか、強いて言うなら常守朱が負けて世界から真の意味で全て争いがなくなった世界といえばいいのかな。ただし個人の自由はどこにもなく、自由を求める人すらもいなくなった、みたいな感じ。
なので自分はサイコパスを「ハーモニーに辿り着かなかった世界線」と思って見てる。管理と戦い続けることを選んだ世界。人間ドラマですよね。
全然関係ないけどハーモニーで「ただの人間には興味ないの」って言ってたりするのちょっとおもしろい。伊藤計劃自身もオタクだったんでしょうね、何気にオマージュが詰め込まれてるのが好き。
ちなみにハーモニーは虐殺器官の後の時代のお話で、あのあと主人公が虐殺をアメリカ中にばらまき世界を混沌に陥れた後、逆に死ぬことも許されなくなった超未来が舞台の作品です。
劇場アニメもあるので虐殺器官を見た方はぜひ見てみてください。ていうかクラヴィスは結局どうなったんだろうね、暴動の中ずっと家でピザ食べてたのかな。
斉藤壮馬さんの新しいアルバム楽しみ。
ジャケ写?かわからないけど、百合が写り込んだアジアっぽいお写真めちゃ良い。髪青いよね?